drambuieの日記

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朝日新聞の天声人語は生成AIを使っているか?

※ちなみにこの文章は生成AIを利用しています。

朝日新聞天声人語は生成AIを使っているか?

私の家はまだ古い昭和スタイルというのでしょうか、紙媒体の新聞を購読しています。お茶を飲んだりするちょっとした時間に新聞を読みますし、読み終わった後の新聞紙をゴミ処理に便利に使っています。意外に新聞紙に変わるような大きな紙はないので、生花を濡れた紙でくるんだり、汚れ物を包んだりするのにも便利です。

朝日新聞を嫌いな方も多いようですが、私としては新聞各社の中では朝日新聞が一番面白いと思います。大衆的な面を売り物にする新聞紙よりは、政治や経済、文化への評論記事、各種インタビュー記事欄などが読み応えがあると思います。

そんな朝日新聞の一面を飾っているのが天声人語です。

朝のお茶タイムなどちょっとした時間に天声人語を読んでいます。わずか600字ほどの短いコラムですが、日々の出来事や所感を鋭い視点で切り取り、ときにはユーモアを交え、ときには読者の胸に迫るような深い洞察を与えてくれます。今はその権威も落ちてきたと思いますが、以前の天声人語でしたら、日本における作文の模範例として学生たちが目標にする存在でした。今は、同じ朝日新聞の夕刊の素粒子と同様に、お年寄りのやや言いたい放題的な表現も多いかもしれません。

天声人語の筆者は誰?

ご存知の方も多いと思いますが、天声人語朝日新聞論説委員という、新聞社のトップクラスの記者が執筆しています。

彼らは長年の記者経験で培った豊富な知識と鋭い視点で、日々の出来事をコラムに書き下ろしています。この「人」が書いているという信頼感が、天声人語の価値を支えていると言えるでしょう。

しかし、最近の天声人語を読んでいると、ある疑念が頭をよぎることがあります。それは、天声人語の執筆に生成AIは使われていないのか?ということです。と。その疑念には、主に三つの理由があります。

1. 多様な引用の幅広さ

最近の天声人語では、歴史上の人物から古典文学、最新の科学論文まで、多種多様な引用が使われているように感じます。もちろん、歴代の筆者たちが博識であることは間違いありません。しかし、数人の人間が日々、これほど多岐にわたる分野から最適な引用を瞬時に選び出し、文章に組み込むのは至難の業ではないでしょうか。

印象評価でしかありませんが、以前の天声人語に比べると、各種文献の引用回数が増えているように感じます。以前の天声人語でしたら、一つの文章の引用から思索を開始することが多かったのに対して、現在では一回の文章の中で複数回の引用がなされ、自説の展開の補強に使用されていることも多いように感じます。

生成AIは膨大なテキストデータから学習しているため、どんな分野の知識も網羅しています。天声人語の筆者がAIを補助ツールとして使い、引用元を瞬時に検索し、文章に反映させているのではないかと考えると、合点がいってしまうのです。

2. 字数の安定感

以前の天声人語には、最後の行が数文字余るなど、字数が一定しない日もありました。これは、人間が手で書いているからこその「揺らぎ」であり、個性と捉えることもできました。

ところが、最近の天声人語は、まるでパズルのピースがはまるかのように、紙面ぴったりに文章が完結していることが多いように感じます。生成AIは、指定された文字数に合わせて文章を調整するのが得意です。もし、筆者がAIに「600字程度でこのテーマについて書いて」と指示を出しているとしたら、この字数の安定感にも説明がつきます。

ただし、これは電子組版によるレイアウトの調整の結果かもしれません。天声人語は段落区切りを▼で表し、また▼の前の句点は省略するなど、文字数の変化による変動を吸収しやすい形の表現形式となっているようです。この影響かもしれません。ただ、その弊害で段落間の構成や、一文字単位での文字数を意識した文章表現など、緻密な文書作成ロジックが働いていない場合もあるように思います。(私のブログもそうかもしれないので他人ごとではないですが)

3. 表現の一貫性のなさ

天声人語は、その独特な文体や言葉選びに筆者の個性や哲学が表れるものだと考えていました。しかし、最近のコラムでは、ときどき文章の終わり方や表現の細やかさ、言葉の選択に、これまでの文章とは違う、一貫性のない印象を受けることがあります。

生成AIは、膨大なデータを元に文章を生成するため、特定の癖やスタイルを、その場その場で真似することは得意です。しかし、人間のように、長期間にわたって独自の文体を維持し続けるのは難しいでしょう。生成AIの文章には独特のランダムさがあります。また、AIが書いた文章、人間の文章、人間がAIの力を借りて書いた文章、これらが混在しているとすれば、この「一貫性のなさ」にも説明がつきます。

これも印象評価にしかすぎませんが、私はなんとなく生成AIっぽさを感じる気がしています。ただ、現在は世の中で目にするどの文章を見てもそうした生成AIらしさを疑ってしまうため、もちろん私の思い込みということもあり得ます。

校閲部門の存在と生成AI

論説委員が書いた原稿は、そのまま掲載されるわけではありません。新聞社には校閲という、誤字脱字や事実誤認がないかをチェックする専門部署があります。

この校閲部が、天声人語のような重要なコラムの原稿も厳しくチェックしているはずです。こうした校閲部門が生成AIを補助的に利用している可能性もあります。その場合、元の文章の意味・主張が大きく変わることはないでしょうが、字数調整や引用元の検証などの微修正を行う中で、生成AIっぽさが紛れ込んでしまうかもしれません。「しかし」を「だが」とか「けれども」に置き換えても大きく意味は変わりませんが、最初から最後までを通しで読んだ場合に、違和感を感じる置換結果というのはあるものです。

マスコミに生成AIの利用を明示する責任はあるか?

ここが、最も重要な問いだと思います。

結論から言えば、マスコミには生成AIの利用を明示する責任があると私は考えます。

責任がある、と考える理由

  1. 信頼性の担保 新聞やテレビといったマスコミは、情報の正確性や信頼性が最も重要視される媒体です。生成AIは、便利な反面、「ハルシネーション(嘘の情報を事実のように生成する現象)」を起こす可能性があります。AIが生成した文章をそのまま掲載することは、信頼性の根幹を揺るがしかねません。

  2. 透明性の確保 読者は、「人が書いた文章」として新聞を読んでいます。もし、生成AIが執筆の大部分を担っているにもかかわらず、その事実を隠していれば、読者を欺いていることになります。情報の発信源を明確にすることは、ジャーナリズムにおける透明性の確保に不可欠です。他社との競争もあるでしょうから、その場ですべての手の内を明かすことはできないかもしれません。数年後など、後日、どの程度の利用があったのかを明らかにするという方針でもいいでしょう。

  3. 責任の所在の明確化 万が一、AIが生成した文章に誤りがあった場合、その責任は誰が負うのでしょうか? AIを開発した企業か、それともAIを利用したマスコミか。責任の所在を明確にするためにも、AI利用の有無を明記する必要があると考えます。

もちろん、生成AIを執筆の補助ツールとして使うこと自体は、悪いことではありません。リサーチの効率化や、アイデア出しのサポートなど、その利便性は計り知れません。

しかし、その利用が文章の大部分を占める場合、あるいは天声人語のようなコラムについて、読者が「人間が書いた」と期待する可能性がある文章の場合は、明示する責任があるのではないでしょうか。

天声人語の筆者たちがAIをどの程度使っているかはわかりませんが、もし使っているとすれば、そのことを読者に伝えることで、私たちはより一層、文章の「人間らしさ」について深く考えるきっかけになるはずです。

皆さんはどう思われますか?