後世に残らない演奏会の勧め:富士山河口湖ピアノフェスティバル
連休に、富士山の麓、河口湖へ行ってきました!巨大で美しい富士山を望む開放的な会場で開かれた「富士山河口湖ピアノフェスティバル」です!
以前、このブログでもお話ししたショパンのピアノ協奏曲を辻井伸行さんが演奏されたのを始め、様々なステージを堪能でき充実した数日間でした。 辻井さんが「今年第5回だが、10年、20年と続けていきたい」と発言され、これからも生きていく楽しみがまた一つ増えました。
小曽根真さんのアンコール曲、オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)作曲の「Hymn to Freedom(自由への賛歌)」(1962)、この曲は、1960年代のアメリカの公民権運動に影響を受けて作られたとされており、人種差別からの解放や自由への願いが込められていると知りました。こうした知らなかった曲との出会いもコンサートの魅力の一つです。
演奏家による問いかけの言葉、その一言に心が震えた理由
本題に入る前に、印象的だった言葉を紹介します。
このフェスティバルは開放的な野外コンサートということもあり、演奏家の方がマイクを持ち、観客に話をしてくれることもあります。
辻井伸行さんが第一声「本日の演奏、いかがだったでしょうか?」と観客に問いかけたのを聞いて、私はなぜか心を打たれてしまいました。 ご本人にしてみれば何気ないごく普通のあいさつであり、単なる話のきっかけでしょう。聞かれた観客だって拍手で応えるだけです。 しかし、自分はどうだったかという問いかけをできる勇気がある人物というのは、実は得難い存在なのではないでしょうか。
「今日の授業はどうだった?」これを生徒に問いかけることのできる先生、これは何人か出会ったことがあります。 「本日の私の診察はどうでしたか?」これを患者に聞くことのできる医師、これには出会ったことがありません。
形に残らないからこそ、生まれる芸術がある
少し話が逸れました。「歴史に残らない、記録に残らない、その場限りで消えてしまう芸術」をお勧めしようというが本題です。
ある方のブログで紹介されていた國分功一郎さんの『目的への抵抗』という新書を最近読んだのですが、そこに哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt 1906-1975)の「パフォーマンス芸術」についての議論がありました。
芸術には形として残るものと、その場限りで消えてしまうものがあります。前者は、文学、絵画や彫刻であり、後者は、演劇や音楽、踊りなどです。 この後者の「その場限りのもの」、それを「パフォーマンス芸術」として、自由との関連を議論していました。
この後者の「パフォーマンス芸術」についても、現代においては、録音や録画の技術進歩により、記録に残すこともできなくはありません。 しかし、ほとんどの公演は記録されてCDやDVDなどになることもなく、消えていきます。むしろその後の芸術の発展のためには消えていく必要があるのかもしれないとも感じます。
加えて、たとえ録音や録画により記録されたとしても、それは劇場で観客が見た生の演奏とは全く異なるものです。
完璧なCDにはない、不完全なライブの魅力
その場限りの芸術には失敗も多いです。失敗というと言い過ぎかもしれません。大当たりと当たりがあるというような感じでしょうか。 何かしらちょっとだけ期待外れだったり、体調不良や疲れているのかパワーが感じられなかったり。 演奏者間のコミュニケーション不足、練習不足でまだ習熟が足りないこともあります。
私は地方公演が多いのですが、東京公演と比較すると出演者の緊張感がちょっと違うな、移動で疲れているのかなという時もあります。
ピアノ協奏曲で言えば、ピアノとオーケストラが融合するところまでは行かず、 演奏者の試みが完全には成功せず不完全燃焼のようなケースもあります。
一方で記録された音楽、CDのようなものは、何回再生しても、変わることがなく、失敗が存在しません。 歴史的な名演のCD、何回聞いても同じ感動を繰り返し味わうことができます。
そうした聞くことの当たりはずれやリスクがない記録の再生、それは過去の人たちは持ちえなかった、現代の私たちに与えられた贅沢な経験です。 佐藤義美:作詞、服部公一:作曲の「アイスクリームのうた」(1960) という歌はご存じですか?昔、子供とよく聞きました。 アイスクリームは「おとぎばなしの おうじでも むかしは とても たべられない」素晴らしいものだという歌です。 過去の王族ですら味わったことのない贅沢な経験を我々はしています。
しかし、そうした再生という形で音楽を味わうばかりだと、 外れもあるが大当たりもあるといったような、リアルタイムで共有される一回限りの体験と、 再生されたものを繰り返し聞くだけの体験は、実は全く異なるものだということをイメージできなくなります。
國分さんの著書に乗っかった表現をするなら、音楽を聴いて感動できればいい、期待した効果があればそれでいい、私が音楽に期待して聞くことの目的を満たしてくれればいい、 それならすべての音楽や演劇、ダンスは、録音・録画してCDなりネットでダウンロードできれば、それだけで十分なはずです。 そうではなく、多くの聴衆が同じコンサート会場に集い、対面で演奏者の音楽に向き合う。場合により少し失敗することもあるかもしれません。 しかし、自らの肉体をそこに置き、時間と空間を共有する、そうしなければ感じることのできない感動というものが存在します。
失敗は失敗で終わらない
仮に、何かしらちょっとだけ期待外れなコンサートがあったとしましょう(もちろん河口湖ピアノの話ではありません)。 でも、それをコンサート会場で聞いた後、私は、完璧な名演のCDを聴いた後とは、別の感慨、充実感を感じます。
それは演奏者と何かしらのやり取りができた、演奏者からの問いかけを感じられた、そうした感覚です。 「あのピアニストは今日は完全には成功しなかったかもしれない、でも何かに挑戦しようとしていた、それは何だったんだろう、何を目指していたんだろう」そうした考えてみたいことが次々と、無数に私の中に生まれてきます。 「そういえば表情が少し暗かったかな」とか「あの場面はちょっと無理してでも頑張って力強く弾こうとしていたな」とか、コンサートの様々な場面を思い出し、相手を理解したいという心の動きを押さえることができません。
同じ空間を共有したことによる情報量、それはとてつもないものです。脳がすぐには処理しきれないほどの情報を受け取り、歓喜する。 表現したい、聞いてほしいことがあるという演奏者に相対し、 私も相手を聴き理解したいという心の動きを一切、制限することなく存分に働かせることができる。 コンサート会場では私以外にも、数多くの観客が様々な反応を見せ、会場の中が大量の思考で埋め尽くされているのを感じます。 ちょっと変な表現かもしれませんが、新規性や好奇心の塊である人類にとってこれほどの楽しみはないのではと感じます。
すみません、ちょっと前段落の言い方は奇妙な表現だったかもしれませんが、今回、私が感じて考えてみたことを表してみました。
さて、長々と書きましたが、結論はシンプルです。「歴史に残らない、その場限りで消えてしまう芸術」に、ぜひあなたも足を運んでみませんか。そこでしか味わえない感動が、きっと待っています。

富士山はちょうど雲で見えませんでした。ライブならではの残念ですが、それも含めての消え物の良さになります。(この画像、AIで人の顔をぼかすように加工したのですが、よく見ると、かなり不自然で不気味な画像となっています。ご笑覧ください。)