行政を補完する民間の権力について考える:國分功一郎「目的への抵抗」から
國分功一郎「目的への抵抗」を最近読みました。 そこでは、行政の権力に対してどうやって抵抗できるのかが議論されているのが面白かったです。
私たちが学んだ社会や公民の教科書では、三権分立で立法が国の最高機関とされていました。単純にそれはそうだろうなと思います。
しかし、実際に法を執行するのは行政であり、実際に行政にはかなりの裁量権がある。 法を執行して社会を良くするという目的のために、行政はかなりの強制力を持っているが、私たちは選挙などで行政を直接制御することができない。 そういう議論がありました。
カヌーイストの野田知佑さん(1938 - 2022)の著作でも、そうした行政の怖さが表現されていたと思います。 記憶に頼って書いているので不正確かもしれませんが、ダム反対運動が一度は成功した後、時の行政の担当者が「これで終わると思うなよ、行政は一度決めたことは絶対にやり遂げる」という捨て台詞のような趣旨の発言をしたことが、彼の著作に記録されていたと記憶しています。 道路計画でも、河川整備でも、一度計画したことは成し遂げる、一度判断した正しさを曲げることがない、そうした性格が行政にはあります。(その割には高速道路料金の償還主義はいつまでたっても実現されないとか矛盾だらけですが)
閑話:細胞膜の話
次の話に行く前に、本の中盤、生徒からの質問にあった生物の膜の話も面白かったですね。 細胞は、周りの世界との間に境界を持ちつつも、その境界を通して外界と必要なやり取りをする。 つまり、自分自身の環境をある程度設定・維持しつつ、完全に閉じこもるわけではなく、生きるために選択的に外部の要素を取り込んだり、排泄したりする。
この「境界」と「選択的やり取り」こそが、膜を持つ細胞の基本的な機能です。この膜がなければ、内部の環境は保てず、生命活動も維持できません。 この自己と非自己を区別する膜は不可欠ですが、同時に外部とのやり取りも必要だという話、興味深く読みました。
そして、この話に関連して、現存する最古の多細胞動物とされるのが、海にいるカイメン(海綿動物)だったという話を思い出しました。 カイメンは検索していただくと分かりますが、管のような形をしています。 「細胞膜の話」と、この「管のような生き物」の話は、生命の根源的な構造についての重要な連想でつながっています。
単細胞の膜: 境界(膜)を作り、選択的に外部から物質を取り込む。
多細胞の管(カイメン): 体全体が境界(体壁)を持つ管(水管系)のような形になり、水の流れという物理的な力(海という環境が提供する強制力)を利用して、選択的に栄養を取り込む。
単細胞が膜で「選択」を始めたことが、多細胞のカイメンでは、「管」という形の構造と、環境が提供する「流れ」を組み合わせて「外部から取り込む」という生きたシステムに拡大したわけです。
人間の体も顔面からお尻にかけて、一つの管でつながれています。私たちは体の外側にある皮膚を自己と非自己の境界線と認識しがちですが、加えて、この内部の腸管も重要な境界線です。
すみません、話が飛びました。さて、続きです。
行政を補完する民間の権力、強制力について考える
最近、特に医療に関して疑問を持つことが多かったのですが、特に疑問だったのが、医療が権力とは違うにしても、何かしらの強制力を持って私に指示してくるという点でした。 血圧が高ければ病院へ行き治療しろと言われますし、病院へ行けば、検査をしろ、薬を飲めと言われます。
これは、先の行政の話と通底するように感じます。行政は法という強力な「目的」(社会を良くすること)のために強制力を持つ。 一方、医療は「専門知」という権威を背景に「目的」(患者の健康)のために、時には強い規範や指示として機能する。
ここで疑問に思ったのは、この「専門知」に基づいた指示や規範が、行政の権力とどう異なり、どう似ているのかということです。 (※この文の最後の方はAIが作文したのですが、もしかしたら國分さんの文章を剽窃しているかもしれません。私にしては上手すぎる表現だと思いますが、いったんこのままにします。)
医療は国家権力そのものではありませんが、社会のシステムにおいて公的な性格を帯びており、特に現在の高度に制度化された医療体制では、行政機能を補完するかのような強力な影響力を持っています。 たとえば、感染症対策や公衆衛生といった分野では、医療は行政と一体化し、個人の自由や行動に対して強い制限を加えることができてしまいます。
そして、この医療の指示もまた、行政と同様に、私たち一般市民が直接制御・コントロールするのが極めて難しい。 私たちは医者を選べても、医療システムそのもの、あるいは専門知そのものの方向性を直接民主的に決めることはできません。 この非民主的でありながら公的な強制力を持つ「行政を補完する民間の権力」とでも呼ぶべきものこそが、 國分さんの議論にあった行政の「裁量権」の現代的な拡大形なのではないか、という気がしています。
スマホが指示する個人の行動
そして、この「強制力」や「誘導」の話で気になるのが、スマートフォンとそのアプリです。スマホは文字通り、私たちの生活のあらゆる側面に介入し、「次は何をすべきか」を指示してきます。
特に、このスマホアプリが用いる手法として、近年注目されているのがナッジ(Nudge)です。ナッジとは、行動経済学の知見に基づき、人々が自分自身にとってより良い選択を自発的に取れるように、選択の自由を奪うことなくそっと後押しする手法です。罰則や大きな金銭的インセンティブではなく、人間の非合理的な心理(バイアス)を利用し、無意識の判断に働きかけます。
例えば、健康管理アプリが「昨日の歩数で、あなたは地域の利用者の中で下位25%です」と通知することで、同調効果(規範)を利用して「もっと歩こう」という行動を促す。 個人の行動を観察して、「今少し運動しませんか?」などと提案(通知)してくることもあります。
健康アプリ以外にも、例えば通販サイトや動画サイトでも、様々な商品やコンテンツがお勧めされてきます。個人のより良い生活という目的のために、様々なアプリが様々な提案・通知をしてきます。
行政や医療といった公的な強制力が「こうすべきだ」と明示的な規範を示すのに対し、ナッジはスマホの通知や画面デザインといった「選択アーキテクチャー」を通じて、「気づけばそうしていた」という形で私たちの行動を望ましい方向に誘導します。
これは、公的な権力と民間のサービスが融合し、私たちの最も私的な空間(スマホの中)にまで「強制力のない強制」を張り巡らせている状態と言えるのではないでしょうか。 「目的への抵抗」を考えるとき、私たちは、行政や医療の巨大なシステムだけでなく、日々の生活で私たちを「そっと押してくる」このデジタルなナッジの力にも、意識的に向き合う必要があるように感じました。
変な例えですが、私たちは細胞膜や海綿の選択的な取り込みをもっと認識する必要がありそうです。