命を懸けている人の姿を、気分で見たっていい
吉本浩二『定額制夫の「こづかい万歳」』第69話を読んで、考えるところがありました。
それは将棋を観る「観る将」についての話で、話の後半に「観る将」は「気分」で見ることができるのがいいという会話がありました。 パートや家事など主婦としての仕事をしながら、気分で観たいときに観る。プロが必死に考え抜いて戦っている姿を「気分でだらだら」観ることができるのがいい、という話でした。
というのも、最近、Apple Musicでブラームスのクラリネットソナタについて、何人もの演奏家の演奏をとっかえひっかえ聴いていて、なんとなく罪悪感を感じていたからです。 集中して、作者に正面を向いて聴くのではなく、ながら聴きで、時にはスキップしたり、集中できなければ、途中で聴くのを止めてしまうこともありました。
自分はクラリネットなんか全然できないくせに、上から目線で、このアルバムよりもこっちのほうがいいな、なんて優劣も付けてしまいます。
でも、それでもいいじゃないか、という気付きを与えてくれたような気がして、新鮮でした。
必死にやっている人を観ているこちらにも、自分の人生がある
プロ棋士や音楽家、あるいはその他の分野で「命を懸けている」と言えるほど真剣に、深く、その道に邁進している人たちの姿には、敬意を払うべきでしょう。しかし、その敬意が、受け手である私たちの行動を制限する必要はないのではないでしょうか。
将棋の対局にしても、クラシック音楽の演奏にしても、それらは受け手に届き、鑑賞されることによってはじめて、その存在意義を強く持つことができます。作り手や演じ手が必死であるなら、受け手もまた必死でなければならない、というルールはどこにもありません。
私たち鑑賞者にも、仕事があり、家族との生活があり、疲労やストレスがあり、そして「気分」があります。忙しい日常の合間に、プロの極限の努力の結晶を、気楽に楽しむ。これは、彼らの創造物に対する冒涜ではなく、むしろ、その作品が私たちの生活に深く入り込み、日常を豊かにしてくれている証拠です。
偉大な作品やパフォーマンスは、鑑賞者がどんな姿勢で向き合おうと、その価値を失うことはありません。私たちは、そこで彼らが身を張って行っているパフォーマンスの確かさを信頼することができます。だからこそ、私たちも今ここで自分の身を張っている「自分の人生」を尊重し、自分のペース、自分の「気分」で、時に雑に、時に集中して、自由にそれらと関わって良いのです。
自分にだって感情がある
最近コンサートにうかがった音楽家のステージでの発言で、学生の観客に対して、「音楽をどんな形でもいいので一生続けていってほしい、なぜなら音楽は感情を遠慮せず自由に表現することができる場だから」というような発言がありました。(ご本人の発言を一字一句正確には引用できていないかもしれません)
極端な話、たとえ「人を傷つけたい」とか「この世界が気に入らない」といった通常は受け入れられないようなネガティブな感情であったとしても、音楽ではそれを表現することが可能で、かつ、そうした表現の自由が守られるべきです。
そして、この「感情の自由な表現」は、表現者だけでなく、鑑賞者にも当てはまるはずです。
「この曲は感動すべきだ」「この一手のすごさを理解すべきだ」という規範に縛られず、聴きながら「なんとなく今日は気分じゃないな」と感じたらスキップしてもいい。演奏家の解釈に対して「自分には合わない」と優劣をつけてもいい。それは、私たち一人ひとりの心の中に、自由に揺れ動く感情があり、それを「遠慮せず」表現しているに過ぎません。
プロが命を懸けて表現したものであっても、その作品は、受け手が自分の感情や都合と照らし合わせ、自分自身のものとして消費して良いのです。真剣なものに対し、時にだらだらと、時に勝手に評価しながら接する——その自由さ、気楽さこそが、私たちの日常と、プロの仕事とを結びつける、最も健全な関わり方なのかもしれません。
1ページ目の奥様の「あぁん?」がなんかいいですね。