失われた30年は終わっている:なぜ「天声人語」だけが底を打てないのか
2025-12-25 天声人語が映し出す「ズレ」
本日の天声人語では、半藤一利(1930-2021)の「40年史観」が紹介されていました。以下は天声人語からの引用です。
(この40年史観)に我流で便乗すれば、戦後は40年かけて繁栄の坂を上り、バブル経済という峠を越えて、下り坂へ。次の40年といえば2025年の今年である。 ならば停滞も底を打っているはずなのに、残念ながらそうは思えない。
この一節を読んで、違和感を抱かざるを得ませんでした。いったい執筆者は、TOPIXや日経平均の推移、あるいは街中の求人倍率や賃上げの勢いを、どのようなバイアスで眺めているのでしょうか。
バブル期の最高値を更新し、企業の設備投資が過去最高水準にある2025年の現実を前にして、なお「停滞の底が見えない」と嘆く。これはもはやデータに基づいた分析ではなく、「日本は沈まなければならない」という悲観論への執着に近いものを感じます。40年周期説という中期的な歴史観を引用しながら、その結末であるはずの「再生」の兆しを否定しては、歴史観そのものが形骸化してしまいます。
失われた30年は終わっている
円安や物価高といった課題はあれど、日本経済は着実にフェーズを変えています。 人口はまだまだ減る見込みですが、社会構造もかなり変化しており、現役世代が活躍できるスペースが生まれているのではないでしょうか。
もちろん現役世代にしてみれば、まだまだ不十分な点は多いと思います。しかし、私たちのころには当たり前だった長時間労働は段々と姿を消しつつあります。(もちろん、完全にはなくなっていませんし、企業間格差が広がっているかもしれません)
「安ければ良い」というデフレ思考から、価値に対して正当な対価を払う、あるいは賃上げを前提とした経営へと、社会全体の意識がアップデートされつつあります。
賃上げの機運もかつてないほど高まっています。「デフレ完全脱却」という言葉が現実味を帯び、IT活用やDX(デジタルトランスフォーメーション)によって、非効率だった日本型経営も少しずつアップデートされ始めました。つまり、かつての「失われた30年」を定義していたような「停滞・縮小・過重労働・低賃金」という負のセットは、確実に解体されつつあるのです。
私たちの過去の経済構造への「執着と諦め」が底を打ったのだと感じる場面も少なくありません。
新聞の発行部数は下がる一方
ただ、天声人語の論説委員が「停滞の底」を感じられないことには、皮肉にも同情の余地があります。なぜなら、新聞業界という狭い世界の中に限っては、いまだに強烈なデフレと停滞が続いているからです。
かつては全国の家庭に届けられていた夕刊も、度重なる休止を経て、今や朝日新聞が発行を続けているのは首都圏や近畿圏を中心とした13都府県程度にまで縮小しました。地方の大部分ではすでに夕刊を読むという文化自体が物理的に消滅しています。
おそらく、朝日新聞社内では、引き続き経費節減の力が強く、不自由さを感じているのでしょう。朝日新聞の決算のニュースを確認しても、本業のコンテンツ販売の売上高は減少の一方で、かつての栄華で手に入れた不動産収入などで利益を確保している状況があるようです。
つまり新聞業界は日本経済のトレンドからは外れてしまっており、日本経済の回復を実感できる場にいないということでしょう。 身近な同僚がリストラされ、経費削減の波に洗われ、自分たちの発信の影響力が衰えていく。 彼らにとっての「底」はまだ先であり、斜陽産業の内側から外の世界を眺めれば、日本全体が自分たちと同じように沈んで見えるのかもしれません。 しかし、それは「業界のフィルター」が作り出した幻影に過ぎません。
新聞業界はいつ底を打つのか
では、新聞業界がこの「停滞の底」を打つのはいつになるのでしょうか。 おそらく、いま紙で新聞を読んでいる最後のメイン層である、我々50代・60代が完全に引退し、社会の主役がデジタルネイティブに完全に置き換わる頃ではないでしょうか。
私が子供の時、不用意に新聞を足で踏んでしまうと、親に怒られました。「文字を足蹴にすることは許されることではない」という感覚を親から教わりました。
かつてのインクの匂いのする活字の黄金時代を知る世代が、ノスタルジーと共に紙の束を広げる。その姿が消える時、新聞社はいよいよ「過去の経済構造」への執着を強制的に断たれることになります。つまり、彼らにとっての「底」とは、現在のビジネスモデルが物理的な限界を迎える瞬間を指すのかもしれません。
過去の栄光への「執着と諦め」が決着するには、あと10年、あるいは20年の歳月が必要なのでしょうか。しかし、社会のスピードはそれを待ってはくれません。自分たちの衰退を社会全体の衰退にすり替えて報じ続ける「延命措置としての悲観論」を書き続けるなら、再生の坂を上り始める日はまだやって来ないのかもしれません。
終わりに
「その意思がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません」
2025年、私たちは新しい坂を上り始めているのか、それともまだ下っているのか。その答えは、すでに新聞の朝刊の中にはなく、日々進化するテクノロジーや、活発に動くマーケット、そして変化を恐れず働く人々の熱気の中にあるように思います。
皆さんはいかが思われますか。