サイレンの音が聞こえる屋外コンサートの良さ:富士山河口湖ピアノフェスティバル
今回、富士山河口湖ピアノフェスティバルに行って、良かったこと、それが屋外コンサートであった点です。
演奏家が一生懸命に演奏している中、時折、救急車のサイレンの音が聞こえます。重篤なかたがいるのだろうか、ふと心配になります。 子供が公園で遊んでいる楽しげな声も聞こえます。泣いていたり怒っていることもあります。隣でコンサートをやっていることが分かったのか、ふざけて、わざと大きな足音を出す子供もいます。 一方で、野鳥のさえずりも聞こえます。
「リアル」な世界との意図せぬ共演
通常、クラシックコンサートホールは、音響学的に完璧な無音の世界を作り出すことを目指します。 しかし、屋外コンサートは、その対極にあります。サイレン、子供の歓声、鳥のさえずりといった「生活音」は、音楽という非日常的な体験を、私たちが生きる日常のリアリティと結びつけます。
この雑音の侵入は、演奏を隔離された「芸術作品」としてではなく、「今、ここで起きている生きた出来事」として感じさせます。 重厚なピアノの和音の合間に聞こえる救急車の音は、私たちが音楽に浸っている間も、外の世界では命に関わる出来事が展開していることを思い出させます。
子供のうるささをなぜか許容できる
コンサート会場の隣の公園で子供がなにかを叫んでいる。普通は止めてくれと思うかもしれません。 でも、屋外コンサートではなぜか、「まあいいか」と笑ってしまいます。 屋外コンサートの構造上、周囲の音を防げないのだから仕方がありません。 しかし、それ以上に、周囲の雑音によって、この素晴らしい演奏が影響されることはない、私はそれを信頼できるからです。
最近、ノイズを許容できない人が増えていないでしょうか?
ノイズキャンセリングのイヤホン、これを装着していると、本当に世界を無音に感じます。 もちろん良いこともあり、無音の世界で精神が落ち着くのを感じます。
しかし、子供のはしゃぐ声を聴きたくない、私の心を乱す音を受け入れることができない、そうした意見を聞くことも増えました。 幼稚園や小学校、公園を近所に作らないでほしい、そういう住民の意見が出てくることもあります。
もちろん、それは理解できる要望であり、自分勝手と否定されるものではないと思います。 例えば、夜勤の方がいらしたら、昼間でも静かに眠りたい、それは当然の要求です。音声に過敏に反応してしまう聴覚過敏のかたもいらっしゃいます。
ノイズの許容が生み出す「心のゆとり」
ノイズキャンセリング技術の普及は、現代社会における「ノイズの分離」という欲求を象徴しています。 ストレスの多い環境から自分を守り、集中力を高めるための合理的な手段ですが、同時に他者や環境との接点を自ら遮断することでもあります。
屋外コンサートで子供の声を受け入れられるのは、その場の音楽が本質的に力強いものだという演奏への信頼に加え、「完璧さ」を求めないことによる心の解放があるからです。 「私は集中しなくてはいけない、完璧でなければならない」というプレッシャーから解放されることで、「まあいいか」という「ゆとり」が生まれます。 この「ゆとり」が、単に音を聞くだけでなく、「閉ざされたコンサート会場が、同時に外部の世界を受け入れる」という豊かで哲学的な体験につながります。
人はリアルな再現でないと分かっていても感動することができる
これは演劇でイメージしてもらえると分かりやすいと思うのですが、演劇の舞台を見て、人は何となくこれは作りものだと感じます。
張りぼてのセット、意図的な照明、良く通る大きな声でセリフを述べる俳優、 すべてが私たちの普段いる世界ではありません。何かしら作られた世界を見ています。
そんなことは誰でも分かります。 しかし、それが作りものだと認識したとしても、私たちはなぜかその演劇に感情移入し、感激し涙してしまいます。
騒音があっても音楽に感動することができる
舞台が世界をリアルに再現した完璧なものではない、それが分かっていても感動できる、それが人間の不思議さです。
演劇や音楽といったパフォーマンス芸術は、「不完全なもの」を通して「真実」を伝える力を持っています。 張りぼてだと知っていても感動できるように、 私たちは音響的に不完全な屋外の環境であっても、騒音と音楽を同時に耳に受け入れ、感動することができます。
私はサイレンを出す救急車の中にいる患者に付き添ってあげることはできません。私はコンサートの音楽を聴いています。そして、その芸術に感動します。 私は手の届かない何かを無視しています、その認識こそが実は大切なことなのではないか、と感じました。
芸術と現実の「距離」:生死の中にある力強さ
救急車のサイレンは、コンサートの「外側」にある世界—私たちが今いる、生と死が隣り合わせの現実—を突きつけます。 にもかかわらず、演奏家は演奏を止めず、私たちも舞台から目を離すことはありません。 この時、芸術は、現実から目をそらすための「逃避」ではなく、現実と共にある「力強さ」として現れてきます。
屋外コンサートは、芸術が「完璧」でなければ楽しめないのではなく、「生死のある世界でも私たちは楽しむことができる」という、私たちの心のたくましさを感じさせてくれます。