暗号通貨:100倍、200倍になる「化け物」を横目に、正気で居続けることの難しさ
これまでの記事で、暗号通貨の信頼の根拠や値上がりのメカニズムについて、少し理屈っぽく解説してきました。しかし、最後にここらで少し、私自身の極めて個人的な視点をお話ししたいと思います。
結論から言うと、私は暗号通貨を持っていません。
しかし、かつてその「熱狂」の近く、舞台袖の隅のほうにいたことがあります。
※以下、ぼかしや脚色を含みます
2016年、ブロックチェーンは「怪しい実験」だった
2016年あたり、私は仕事を通じてブロックチェーンのプロジェクトに関わっていました。当時のビットコインは1BTCが4万円から10万円程度。まだ「仮想通貨」という言葉は一般には浸透しておらず、一部のエンジニアや風変わりな投資家たちが「面白いおもちゃ」としていじっているような時期でした。当時の記憶を呼び起こすと、さらにそれより昔、1BTC数円だった時代に買った人たちが「どのくらい儲かった?」みたいな話を宴会でしてましたね。
当時は、今の熱狂なんて想像もつきませんでした。 「この技術で世界が変わるかもしれない」というワクワク感はありましたが、それはあくまで「技術的な可能性」としての期待でした。
そして、誰もいなくなった
その後、何が起きたか。
そのプロジェクトに関わっていた関係者たちは、今や一人も残っていません。みんな退職し、あるいは転職し、散り散りになりました。
ブロックチェーンという技術が社会に実装されるスピードよりも、その「価格」が跳ね上がるスピードの方が、あまりにも速すぎたのです。
昨日まで一緒に「分散型台帳がどうの」と議論していた同僚が、ふと気づくと、当時の数万円だったビットコインを「なんとなく」持っていただけで、数年後には個人の努力では到底届かないような資産を手にしている。
そんな光景を目の当たりにして、それまで通り「地道に働いてキャリアを積む」という感覚を維持するのは、至難の業です。
「200倍」という数字が壊すもの
2016年初頭にビットコインを買っていれば、2026年現在は約200倍になっています。 10万円が2,000万円になり、100万円が2億円になる。 (さらに言えば、2010年など、それ以前の黎明期からでは、想像を絶する倍率になります。そういえば、まだ安かったころには、クリスマスに1万BTCでピザが宅配してもらえる(?)なんて言うニュースもありましたかね。)
これが、株式投資や不動産投資の「常識」では測れない、暗号通貨という化け物の正体です。
正直に言って、この数字を横目で見ながら正気で居続けるのは、難しい。 「あの時、たった100万円でも放り込んでおけば、今頃は……」 そんな考えが、夜中にふと頭をよぎる。それは人間の性(さが)でしょう。
かつて同じプロジェクトに向き合っていた仲間たちが、一人、また一人と「あっち側」の経済圏へ消えていく。 技術の面白さとは異なる次元で人生が左右されているようにも感じました。
それでも私は買っていない
そんな経験をしながら、なぜ私は暗号通貨を買わなかったのか。あるいは今も買わないのか。
それは、私にとってそれが「理解はできるが、納得はできない」ものだったからかもしれません。 あるいは、あまりにも近くでその「毒気」に当てられすぎて、適切な距離感を失ってしまったのかもしれません。 (もちろん「ちょっと保守的過ぎたかもな」とは思ってますよ!)
暗号通貨は、数学と暗号学が生んだ「信頼の結晶」です。 しかし同時に、人間の「労働」や「営み」という重力から解き放たれすぎた、あまりにも軽やかで、あまりにも残酷な「富の増幅装置」でもあります。
結びに
私たちは今、歴史上かつてない「化け物」と同じ時代を生きています。
100倍、200倍という数字は、人生を豊かにしてくれることもあれば、働くことの意味や、積み上げてきた価値観を根底から揺さぶってしまうこともあります。
もちろん何が正気かという問いはあるでしょう。100万円を2億円にして、FIREする。別に犯罪を犯したわけではありません。
ただ、自分に先見の明があった、それを胸を張って言えるものでしょうか。 以前の記事で、社会学者のエミール・デュルケームの言説、何かが「聖なるもの(価値あるもの)」として集団に認められるには、「犠牲(コストを払うこと)」が必要である、を紹介しました。 何の犠牲も払わず得た対価に価値を見出せるものか、自問自答してしまう気がします。
私はこれからも、暗号通貨を「持たざる者」の視点から、この不思議な現象を眺め続けるでしょう。それが、あの2016年の熱気の傍らにいた私なりの、正気を保つための最後の境界線なのかもしれません。
